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歴史タレント 小栗さくらさんと巡る 埼玉ゆかりの三姫探訪

  • 2018年04月13日(金)12時48分

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源氏の名門足利氏(尊氏)が室町幕府を興すと、西(京都)に将軍、東(鎌倉)に鎌倉公方を置く2大統制を敷いた。しかし、次第に室町幕府と鎌倉公方は対立。応仁の乱が勃発する前に、関東地方は騒乱状態となっていた。そんな戦乱真っ只中の中世の日本で、歴史に名を残す名門武家に生まれた埼玉にゆかりのある姫たちがいた。彼女たちは果たしてどのような生涯を送ってきたのだろうか。埼玉との接点になるキースポットが、鎌倉公方として君臨した関東足利家と密接な関係を持つ寶聚寺(久喜市)だ。寶聚寺がある場所は室町時代、高柳御所と呼ばれる東国宗教界の頂点として君臨していた通称「雪ノ下殿」の御座所があった場所。今回、歴史タレントとして活躍する小栗さくらさんが現地を訪れ、史実をもとに推測を交えながら知られていない意外な埼玉の姫君の歴史を3回に分けてリポートする。さて、どんな姫が登場するのだろうか。第1回目は、忍城(行田市)と甲斐姫。

忍城 甲斐姫
戦国時代の戦うお姫様は東国一の美女

テレビや歴史イベントで大人気の歴史タレント・小栗さくらさん。戦国と幕末の歴史が大好きだそうで、この日訪れた忍城は初めての場所。興味津々の小栗さん。行田市にあり関東七名城としても知られる忍城には城主・成田氏長の長女として産まれた甲斐姫がいた。その美しさは “東国随一の美女” と噂され、兵法や武芸にも優れていたので男に生まれていれば天下に名をなしていたはず。甲斐姫のイメージは?
「伝説や武勇の逸話がとても多く、勇気のある女性という感じです。祖祖母も女傑だったようなので、その血筋を引いているのでしょうね」。
私たちがイメージするお姫様のイメージとかけ離れています。
「お姫様と聞くと、たおやかなイメージがありますが、戦国時代は女性も肝が据わっていのでしょう」。
甲斐姫の育った忍城は、当時、関東を支配していた北条氏の重臣・成田氏の居城。一帯が湿地で囲まれている難攻不落の浮城である。豊臣秀吉が行った小田原攻めの舞台のひとつとなった城としても知られ、天正18年(1590)、石田三成率いる秀吉軍は2万6000人の大軍を引き連れ忍城に向けて出陣。秀吉軍と対峙していた当時、忍城主である父が不在だった甲斐姫は、わずか500人の軍と2500人あまりの女性や農民たちと共に迎え撃つ。秀吉軍は忍城の大宮口に本営を設け武力攻撃を敢行したが、甲斐姫は自ら鎧兜を身に付けて出陣。秀吉軍の侵入を阻止したとされている。結局、城の守りが固く容易に陥らなかったため、城周辺の丸墓山古墳に本陣を張り、この古墳の南北に延長28㎞ともいわれる堤(石田堤)を築き、利根川と荒川の水を引き入れて忍城を水攻めにすることを計画したとされている。しかし、この計画は秀吉の指示で進められたようだが、実際には水攻めをする状況ではなかったというのが最近の通説となっている。
小栗さんはお城を後に車で5分ほどの丸墓山古墳へ。石田三成は最近、女性たちの間で大人気の人物。小栗さんも大好きな武将の一人とあって、少し興奮気味の様子。小高い丸墓山古墳を登ると、そこから数キロ先に忍城が一望できる。
「本当にこんなところから水攻めをするなんて、三成もここに来て無茶な計画だと思ったのではないでしょうか」。確かに、距離がありすぎて、途方に暮れてしまう。
その後、甲斐姫の武勇伝を聞いた秀吉は姫を側室に迎えている。わかないことの多い甲斐姫だが、美しさと強さを兼ね備えていたことから、秀吉が亡くなる間際まで側にいたようだ。忍城までの交通/秩父鉄お道行田市駅(南口)から徒歩15分。
※次回、小栗さんは名門足利家ゆかりの寶聚寺を訪れます。お楽しみに。