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歴史タレント小栗さくらさんと巡る 埼玉ゆかりの三姫探訪vol.3

  • 2018年05月11日(金)16時22分

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9歳で古河城主となった日本史上稀有なお姫様
足利氏姫

天正2年(1574年)、第5代古河公方・足利義氏と北条氏康の娘の間に足利氏姫が生まれた。(※氏姫は史料に実名の記載がないため便宜上の名前である)。
当時、関東を支配するに至った北条家は、東国の武士をまとめる立場であった古河公方家との姻戚関係を深めていた。当時、公方家は古河城と高柳御所(現在の久喜市・寶聚寺)を拠点に、武家と宗教界に影響力を持っていた。氏姫は天正11年(1583年)に父が死去すると、弟の梅千代王丸は既に死去していたため、9歳にして古河公方家の家督を事実上相続することになった。若干9歳で関東武士の女性棟梁が誕生した瞬間である。
日本の歴史上、少女が武士の棟梁になるというのは珍しく、しかも関東武士をまとめる公方家の棟梁である。あまりにも若い古河城主・氏姫には、古河公方宿老・家臣団(御連判衆と呼ばれていた)がいて、政務や北条氏との折衝にあたっていたと考えられる。しかし、1590年豊臣秀吉の俗にいう小田原攻めで北条家が滅亡すると、秀吉は名門・関東足利家が途絶えることを惜しみ、天正19(1591)年、氏姫に対立する小弓公方・足利義明の孫、国朝との婚姻を命じ、下野・喜連川の地を与えた。これにより古河公方・小弓公方両家は70年ぶりに統一され、関東足利家が再興されたのである。この時、氏姫は17歳。結婚するまでの8年間、関東は少女による棟梁時代が続いていたことは、戦国大名が群雄割拠していたこの時代を考えると信じられないような事実である。さらに興味深いことに国朝は喜連川に移り住んだものの、氏姫は古河公方嫡流の意地を通して古河の鴻巣に居を構え、別居生活を続けたというのである。
氏姫ゆかりの寶聚寺を訪ねていた小栗さくらさんは、彼女の行動を「古河に居続けることは普通に考えたら許されないこと。しかし、先祖代々の居城があった古河は譲れない部分だったのでしょう。豊臣の力に屈せず、自分自身で出来る精一杯の意地を通したのではないでしょうか」と話す。氏姫の古河に対する強い想いと公方家嫡流のプライドの高さを感じる逸話である。
 源氏の名門、足利氏が興した室町幕府は1573(元亀4)年に足利義昭が京から追放され事実上滅んだ。江戸時代、将軍家直系は断絶し、連枝の系統もせいぜい藩士にすぎない中で、唯一、鎌倉(古河)公方・関東足利家の末裔が大名として存続した。
さくらさんは「前回紹介した関東足利家の嶋子や今回の氏姫は、知名度は高くありませんが、広く名前が知られるようになれば、新しい資料の発見にもつながり、研究が進むかも知れませんね」と期待を寄せる。
寶聚寺/久喜市高柳2208☎0480-52-4939。交通/宇都宮線栗橋駅西口から徒歩約34分(2.7km)。

歴史タレント小栗さくらさんと巡る 埼玉ゆかりの三姫探訪vol.2

  • 2018年04月28日(土)10時13分

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高柳御所 寶聚寺

名門・関東足利家再興を実現
絶世の美人姫 足利嶋子
 室町時代、幕府は関東10か国を統治するために鎌倉に鎌倉府を置いた。将軍・足利尊氏は鎌倉時代から武家の都であった鎌倉を重視。1349年、足利尊氏の四男・足利基氏(もとうじ)が鎌倉公方に就任し東国を統治させたのである。以後その子孫がこの職を世襲した。しかし、時代を下るに従い鎌倉公方は次第に将軍家に反目。鎌倉を移座し、古河(茨城県古河市)を拠点とする古河公方と小弓(おゆみ)(千葉市)を拠点とする小弓公方に分かれ対立。久喜市にある寶聚寺は室町時代、高柳御所と呼ばれ、古河公方の御座所、及び東国宗教界の頂点として君臨していた、足利定尊、及び尊敒(通称:雪ノ下殿)の御所が置かれていた聖地。当時の武蔵国は東の最重要防衛拠点とされ、きわめて重要な場所であった。今回の主役・足利嶋子の祖父で小弓公方となった足利義明もここで過ごしているので、嶋子にとってもゆかりの場所であった。
さくらさんは嶋子にどんなイメージを抱いていますか。
「美女で賢い女性という印象を受けます」。
公方家の内紛が一層激化すると、それに乗じて北条氏が関東で勢力を増し、両公方家は衰退。時を同じに強大な勢力に成長していった豊臣秀吉は北条氏討伐後、1591年、小弓公方の国朝と古河公方の娘、氏姫を婚姻させ喜連川に所領を与える。この出来事のキーパーソンだったのが国朝の姉で小弓公方・足利頼淳の娘として生まれた嶋子(月桂院)である。
嶋子は古河公方家の分家である小弓公方の血を継ぐ名門足利家の姫。1590年、秀吉の小田原征伐の際に出遅れ失脚した夫、塩谷惟久の復権を求めて面会したことが秀吉と嶋子をつなぐ接点となった。秀吉はこの後、古河公方家と小弓公方家を和解させて、関東足利家の再興を図るのである。
両公方家ゆかりの寶聚寺を訪れたさくらさんは、秀吉の考えをこう紐解く。
「秀吉はこの機会に公方家を取り潰すことは出来たはず。しかし、そうはせずに関東足利家を存続させた理由に、東日本の有力な豪族たちから広く尊崇を集め、影響力を保持していた公方家をないがしろにしていないという秀吉の意思表示。秀吉は公方をも統一する力があるということ諸豪族に見せつけたかったのでしょう。秀吉の政治的パフォーマンスだったのかもしれません」。
公方家は今の時代なら皇室的存在だ。秀吉は関東足利氏の権威を政治利用したのである。何れにしても公方家再興を成し遂げた嶋子の功績は歴史的にも非常に大きかった。嶋子はその後、秀吉の側室になっている。
「成り上がってきた秀吉は家柄に弱かったので、名門の家柄で美女なら言うことは無かったでしょう」と、さくらさん。
十数人いたとされる側室の中で最も家格が高かった嶋子は、秀吉自慢の側室であったに違いない。
寶聚寺/久喜市高柳2208☎0480-52-4939。交通/宇都宮線栗橋駅西口から徒歩約34分(2.7km)。
次回は足利氏姫の登場です。お楽しみに。

歴史タレント 小栗さくらさんと巡る 埼玉ゆかりの三姫探訪

  • 2018年04月13日(金)12時48分

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源氏の名門足利氏(尊氏)が室町幕府を興すと、西(京都)に将軍、東(鎌倉)に鎌倉公方を置く2大統制を敷いた。しかし、次第に室町幕府と鎌倉公方は対立。応仁の乱が勃発する前に、関東地方は騒乱状態となっていた。そんな戦乱真っ只中の中世の日本で、歴史に名を残す名門武家に生まれた埼玉にゆかりのある姫たちがいた。彼女たちは果たしてどのような生涯を送ってきたのだろうか。埼玉との接点になるキースポットが、鎌倉公方として君臨した関東足利家と密接な関係を持つ寶聚寺(久喜市)だ。寶聚寺がある場所は室町時代、高柳御所と呼ばれる東国宗教界の頂点として君臨していた通称「雪ノ下殿」の御座所があった場所。今回、歴史タレントとして活躍する小栗さくらさんが現地を訪れ、史実をもとに推測を交えながら知られていない意外な埼玉の姫君の歴史を3回に分けてリポートする。さて、どんな姫が登場するのだろうか。第1回目は、忍城(行田市)と甲斐姫。

忍城 甲斐姫
戦国時代の戦うお姫様は東国一の美女

テレビや歴史イベントで大人気の歴史タレント・小栗さくらさん。戦国と幕末の歴史が大好きだそうで、この日訪れた忍城は初めての場所。興味津々の小栗さん。行田市にあり関東七名城としても知られる忍城には城主・成田氏長の長女として産まれた甲斐姫がいた。その美しさは “東国随一の美女” と噂され、兵法や武芸にも優れていたので男に生まれていれば天下に名をなしていたはず。甲斐姫のイメージは?
「伝説や武勇の逸話がとても多く、勇気のある女性という感じです。祖祖母も女傑だったようなので、その血筋を引いているのでしょうね」。
私たちがイメージするお姫様のイメージとかけ離れています。
「お姫様と聞くと、たおやかなイメージがありますが、戦国時代は女性も肝が据わっていのでしょう」。
甲斐姫の育った忍城は、当時、関東を支配していた北条氏の重臣・成田氏の居城。一帯が湿地で囲まれている難攻不落の浮城である。豊臣秀吉が行った小田原攻めの舞台のひとつとなった城としても知られ、天正18年(1590)、石田三成率いる秀吉軍は2万6000人の大軍を引き連れ忍城に向けて出陣。秀吉軍と対峙していた当時、忍城主である父が不在だった甲斐姫は、わずか500人の軍と2500人あまりの女性や農民たちと共に迎え撃つ。秀吉軍は忍城の大宮口に本営を設け武力攻撃を敢行したが、甲斐姫は自ら鎧兜を身に付けて出陣。秀吉軍の侵入を阻止したとされている。結局、城の守りが固く容易に陥らなかったため、城周辺の丸墓山古墳に本陣を張り、この古墳の南北に延長28㎞ともいわれる堤(石田堤)を築き、利根川と荒川の水を引き入れて忍城を水攻めにすることを計画したとされている。しかし、この計画は秀吉の指示で進められたようだが、実際には水攻めをする状況ではなかったというのが最近の通説となっている。
小栗さんはお城を後に車で5分ほどの丸墓山古墳へ。石田三成は最近、女性たちの間で大人気の人物。小栗さんも大好きな武将の一人とあって、少し興奮気味の様子。小高い丸墓山古墳を登ると、そこから数キロ先に忍城が一望できる。
「本当にこんなところから水攻めをするなんて、三成もここに来て無茶な計画だと思ったのではないでしょうか」。確かに、距離がありすぎて、途方に暮れてしまう。
その後、甲斐姫の武勇伝を聞いた秀吉は姫を側室に迎えている。わかないことの多い甲斐姫だが、美しさと強さを兼ね備えていたことから、秀吉が亡くなる間際まで側にいたようだ。忍城までの交通/秩父鉄お道行田市駅(南口)から徒歩15分。
※次回、小栗さんは名門足利家ゆかりの寶聚寺を訪れます。お楽しみに。