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[更新日:2019年8月9日]

埼玉ゆかりの三姫探訪

源氏の名門足利氏(尊氏)が室町幕府を興すと、西(京都)に将軍、東(鎌倉)に鎌倉公方を置く2大統制を敷きました。しかし、次第に室町幕府と鎌倉公方は対立。応仁の乱が勃発する前に、関東地方は騒乱状態となっていました。そんな戦乱真っ只中の中世の日本で、歴史に名を残す名門武家に生まれた埼玉にゆかりのある姫たちがいました。

彼女たちは果たしてどのような生涯を送ってきたのでしょうか。埼玉との接点になるキースポットが、鎌倉公方として君臨した関東足利家と密接な関係を持つ寶聚寺(ほうじゅじ/久喜市)です。寶聚寺がある場所は室町時代、高柳御所と呼ばれる東国宗教界の頂点として君臨していた通称「雪下殿」の御座所があった場所。

今回、歴史タレントとして活躍する小栗さくらさんが現地を訪れ、史実をもとに推測を交えながら知られていない意外な埼玉の姫君の歴史を3回に分けてリポートします。さて、どんな姫が登場するのでしょうか。

※本文は東武朝日新聞、平成30年4月13日号(第909号)から3回連載で掲載した『歴史タレント小栗さくらさんと巡る、埼玉ゆかりの三姫探訪』を再編集したものです。
文章:東武朝日編集室

歴史タレント小栗さくらさん
歴史タレント・小栗さくらさんプロフィール
博物館学芸員資格を持つ歴史好きタレントとして、TV番組、各地歴史イベント、司会、講演会、声優等として活動する傍ら、歴史系アーティストさくらゆきのボーカルとしても活動中。所属事務所:アクタープロ「亮」。

其の一

三姫探訪・行田市の忍城
忍城 甲斐姫
戦国時代の戦うお姫様は東国一の美女

埼玉県行田市にある忍城埼玉県行田市にある忍城テレビや歴史イベントで大人気の歴史タレント・小栗さくらさん。戦国と幕末の歴史が大好きだそうで、この日訪れた忍城は初めての場所。興味津々の小栗さん。行田市にあり関東七名城としても知られる忍城には城主・成田氏長の長女として産まれた甲斐姫がいました。その美しさは “東国随一の美女” と噂され、兵法や武芸にも優れていたので男に生まれていれば天下に名をなしていたはずです。

甲斐姫のイメージは?
「伝説や武勇の逸話がとても多く、勇気のある女性という感じです。祖祖母も女傑だったようなので、その血筋を引いているのでしょうね」。
私たちがイメージするお姫様のイメージとかけ離れています。
「お姫様と聞くと、たおやかなイメージがありますが、戦国時代は女性も肝が据わっていのでしょう」。

甲斐姫の育った忍城は、当時、関東を支配していた北条氏の重臣・成田氏の居城。一帯が湿地で囲まれている難攻不落の浮城です。豊臣秀吉が行った小田原攻めの舞台のひとつとなった城としても知られ、天正18(1590)年、石田三成率いる秀吉軍は2万6000人の大軍を引き連れ忍城に向けて出陣。秀吉軍と対峙していた当時、忍城主である父が不在だった甲斐姫は、わずか500人の軍と2500人あまりの女性や農民たちとともに迎え撃ちました。秀吉軍は忍城の大宮口に本営を設け武力攻撃を敢行しましたが、甲斐姫は自ら鎧兜を身に付けて出陣。秀吉軍の侵入を阻止したとされています。結局、城の守りが固く容易に陥らなかったため、城周辺の丸墓山古墳に本陣を張り、この古墳の南北に延長28㎞ともいわれる堤(石田堤)を築き、利根川と荒川の水を引き入れて忍城を水攻めにすることを計画したとされています。しかし、この計画は秀吉の指示で進められたようですが、実際には水攻めをする状況ではなかったというのが最近の通説となっています。

丸墓山古墳石田三成が忍城を水攻めにするために陣を張った丸墓山古墳。登ることができます!小栗さんはお城を後に車で5分ほどの丸墓山古墳へ。石田三成は最近、女性たちの間で大人気の人物。小栗さんも大好きな武将の一人とあって、少し興奮気味の様子。小高い丸墓山古墳を登ると、そこから数キロ先に忍城が一望できます。

「本当にこんなところから水攻めをするなんて、三成もここに来て無茶な計画だと思ったのではないでしょうか」。確かに、距離がありすぎて、途方に暮れてしまいます。

その後、甲斐姫の武勇伝を聞いた秀吉は姫を側室に迎えました。わからないことの多い甲斐姫ですが、美しさと強さを兼ね備えていたことから、秀吉が亡くなる間際まで側にいたようです。

■忍城(忍城址公園・忍公園)
住所:埼玉県行田市本丸17-23
交通:秩父鉄道「行田市駅」(南口)から徒歩約15分。

■丸墓山古墳(さきたま古墳公園)
住所:埼玉県行田市埼玉4834
アクセス:JR行田駅・秩父鉄道行田市駅から、市内循環バス「観光拠点循環コース」で「埼玉古墳公園前」下車

其の二

三姫探訪・久喜市寶聚寺
名門・関東足利家再興を実現 絶世の美人姫 足利嶋子
享徳の乱勃発で関東は乱世に突入

久喜市の寶聚寺寶聚寺を訪れた歴史タレントの小栗さくらさん埼玉県の東北部に位置するこの地は、中世室町時代に東国を支配する関東足利氏の軍事的・宗教的拠点として重要な場所であったことが、近年の研究で明らかになりました。
源氏の名門足利氏(尊氏)が室町幕府を興すと、西(京都)に将軍、東(鎌倉)に鎌倉公方という2大統制を敷き、関東10か国を統治する鎌倉府を置きました。将軍・足利尊氏は鎌倉時代から武家の都であった鎌倉を重視していたのです。

1349年、足利尊氏は四男・足利基氏(もとうじ)を初代鎌倉公方に任命して東国を統治させました。以後その子孫がこの職を世襲していきましたが、次第に室町幕府と鎌倉公方は対立していきます。関西で応仁の乱が始まる前に、関東地方では享徳の乱が勃発。五代鎌倉公方の足利成氏(四代鎌倉公方足利持氏の子)は鎌倉を移座し、古河城(茨城県古河市)を拠点としたため初代・古河公方と呼ばれました。成氏の死後、二代古河公方・足利政氏の子である高基の弟・義明(雪下殿と称された)は小弓(千葉市)を拠点とする小弓公方として古河公方と対立。公方家の内紛もあって関東は騒乱状態となっていました。

古河公方と小弓公方ゆかりの高柳御所(現・寶聚寺)

久喜市の寶聚寺久喜市にある寶聚寺(ほうじゅじ)は室町時代、高柳御所と呼ばれ、古河公方の御座所、及び東国宗教界の頂点として君臨していた、足利成氏の弟である足利定尊、及び尊敒(雪下殿)の御所が置かれていた聖地であったことが研究者らによって明らかにされました。当時のこの周辺地域は東の最重要防衛拠点とされ、きわめて重要な場所であったのです。後述する足利嶋子の祖父で小弓公方となった足利義明もここで過ごしているので、古河公方と小弓公方にとって、ここ寶聚寺はゆかりの場所であったと思われます。

さくらさんは嶋子にどんなイメージを抱いていますか。
「美女で賢い女性という印象を受けます」。

公方家の内紛が一層激化すると、それに乗じて北条氏が関東で勢力を増し、両公方家は衰退。時を同じに強大な勢力に成長していった豊臣秀吉は北条氏討伐後、1591年、小弓公方の国朝と古河公方の娘、氏姫を婚姻させ喜連川に所領を与えました。この出来事のキーパーソンだったのが国朝の姉で小弓公方・足利頼淳の娘として生まれた嶋子(月桂院)なのです。

嶋子は古河公方家の分家である小弓公方の血を継ぐ名門足利家の姫。1590年、秀吉の小田原征伐の際に出遅れ失脚した夫、塩谷惟久の復権を求めて面会したことが秀吉と嶋子をつなぐ接点となりました。秀吉はこの後、古河公方家と小弓公方家を和解させて、関東足利家の再興を図ります。

両公方家ゆかりの寶聚寺を訪れたさくらさんは、秀吉の考えをこう紐解いています。
「秀吉はこの機会に公方家を取り潰すことは出来たはず。しかし、そうはせずに関東足利家を存続させた理由に、東日本の有力な豪族たちから広く尊崇を集め、影響力を保持していた公方家をないがしろにしていないという秀吉の意思表示。秀吉は公方をも統一する力があるということ諸豪族に見せつけたかったのでしょう。秀吉の政治的パフォーマンスだったのかもしれません」。

公方家は今の時代なら皇室的存在です。秀吉は関東足利氏の権威を政治利用したのです。何にしても公方家再興を成し遂げた嶋子の功績は歴史的にも非常に大きかったと言えます。嶋子はその後、秀吉の側室になっています。

「成り上がってきた秀吉は家柄に弱かったので、名門の家柄で美女なら言うことは無かったでしょう」と、さくらさん。
十数人いたとされる側室の中で最も家格が高かった嶋子は、秀吉自慢の側室であったに違いありません。

初代鎌倉公方の足利 基氏

足利基氏肖像画南北朝時代の武将。初代鎌倉公方。後の古河公方の家系の祖です。室町幕府初代将軍足利尊氏の四男で、母は正室の赤橋登子。(肖像画は1656年刊・本朝百将伝・林羅山著より転載/東武朝日編集室所蔵)

寶聚寺(ほうじゅじ)

久喜市の寶聚寺寶聚寺は、当時、下総国下川辺庄高柳郷と呼ばれ、利根川が西側に流れる武蔵国との境目の要所に両上杉家に備えるための屋形を備えた後、明応2(1493)年初代古河公方足利成氏の弟尊敒により屋形を寺に改造し開山したと伝えられています。現在、鎌倉の円覚寺の末寺として臨済宗円覚寺派に属しています。寺社には珍しい二層建ての山門は、御所が置かれていた当時の名残を留めているといわれ、老朽化により2015年に檀信徒の篤志によって再建されました。(全国足利氏ゆかりの会HPより)

■寶聚寺
住所:久喜市高柳2208
電話:0480-52-4939
交通:宇都宮線栗橋駅西口から徒歩約34分(2.7km)

其の三

三姫探訪・久喜市寶聚寺
9歳で武家の棟梁となった足利氏姫

天正2(1574)年、五代古河公方・足利義氏と北条氏康の娘の間に足利氏姫が生まれました(※氏姫は史料に実名の記載がないため便宜上の名前です)。
当時、関東を支配するに至った北条家は、東国の武士をまとめる立場であった古河公方家との姻戚関係を深めていました。当時、公方家は古河城と高柳御所(現在の久喜市・寶聚寺)を拠点に、武家と宗教界に影響力を持っていました。氏姫は天正11(1583)年に父が死去すると、弟の梅千代王丸は既に死去していたため、9歳にして古河公方家の家督を事実上相続することになりました。若干9歳で関東武士の女性棟梁が誕生することになったのです。
日本の歴史上、少女が武士の棟梁になるというのは極めて珍しく、しかも関東武士をまとめる公方家の棟梁です。あまりにも若い古河城主・氏姫には、古河公方宿老・家臣団(御連判衆と呼ばれていました)がいて、政務や北条氏との折衝にあたっていたと考えられています。

公方家再興を実現した足利嶋子

久喜市の寶聚寺時を同じに強大な勢力に成長していった豊臣秀吉が1590年、俗にいう小田原攻めで北条家を滅亡させると、秀吉は名門・関東足利家が途絶えることを惜しみ、天正19(1591)年、氏姫に対立する小弓公方・足利義明の孫、国朝との婚姻を命じ、下野・喜連川の地を与えました。これにより古河公方・小弓公方両家は70年ぶりに統一され、関東足利家が再興されたのです。この時、氏姫は17歳。結婚するまでの8年間、関東は少女による棟梁時代が続いていたことは、戦国大名が群雄割拠していたこの時代を考えると信じられないような事実でした。さらに興味深いことに国朝は喜連川に移り住んだものの、氏姫は古河公方嫡流の意地を通して古河の鴻巣に居を構え、別居生活を続けたというのです。

氏姫ゆかりの寶聚寺を訪ねていた小栗さくらさんは、彼女の行動を「古河に居続けることは普通に考えたら許されないこと。しかし、先祖代々の居城があった古河は譲れない部分だったのでしょう。豊臣の力に屈せず、自分自身で出来る精一杯の意地を通したのではないでしょうか」と話しています。氏姫の古河に対する強い想いと公方家嫡流のプライドの高さを感じる逸話です。

小弓公方の国朝と古河公方の娘、氏姫を婚姻させ喜連川に所領を与えた出来事のキーパーソンだったのが国朝の姉で小弓公方・足利頼淳の娘として生まれた嶋子(月桂院)です。
嶋子は古河公方家の分家である小弓公方の血を継ぐ名門足利家の姫。祖父・義明のいた高柳御所にも訪れていたことが容易に想像できます。1590年、秀吉の小田原征伐の際に出遅れ失脚した夫(倉ヶ崎城主《喜連川城》塩谷惟久)の復権を求めて嶋子が面会したことが秀吉と嶋子をつなぐ接点となりました。秀吉はこの後、古河公方家と小弓公方家を和解させて、関東足利家の再興を図るのです。
公方家は今の時代なら皇室的存在。公方家再興を成し遂げた嶋子の功績は歴史的にも非常に大きかったと考えられています。『南総里見八犬伝』(滝沢馬琴著)にも古河公方が登場しています。

源氏の名門、足利氏が興した室町幕府は元亀4(1573)年に足利義昭が京から追放され事実上滅びました。江戸時代、将軍家直系は断絶し、連枝の系統もせいぜい藩士にすぎない中で、唯一、鎌倉(古河)公方・関東足利家の末裔が大名として存続しました。

さくらさんは「前回紹介した関東足利家の嶋子や今回の氏姫は、知名度は高くありませんが、広く名前が知られるようになれば、新しい資料の発見にもつながり、研究が進むかも知れませんね」と期待を寄せています。

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享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」
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享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」日本列島での戦国時代の開幕は、一般的には応仁元(1467)年に始まる「応仁・文明の乱」が画期とされることが多い。この戦乱で京は焼け野原となり、下剋上があたりまえの新しい時代が訪れたというわけである。
最近でも、呉座勇一氏のベストセラー『応仁の乱』(中公新書)のサブタイトルは「戦国時代を生んだ大乱」となっている。新書などのタイトルは概して出版社や編集者の意向をうけて決まることが多いから、やはりこれは最大公約数的な見かたといっていいのだろう。
さて、のっけから恐縮だが、その見かたは、まちがっているとまでは言わないまでも大きな問題がある。
私の説は思いきって簡単にいうとこうなる。

◎戦国時代は応仁の乱より13年早く、関東から始まった
◎応仁の乱は「関東の大乱」が波及して起きたものである

「関東の大乱」というのは享徳3(1454)年12月、鎌倉(古河)公方の足利成氏が補佐役である関東管領の上杉憲忠を自邸に招いて誅殺した事件を発端として内乱が発生し、以後30年近くにわたって東国が混乱をきわめた事態を指す。
この内乱は、単に関東における古河公方と上杉方の対立ではなく、その本質は上杉氏を支える京の幕府=足利義政政権が古河公方打倒に乗り出した「東西戦争」である。しかし、これほどの大乱なのに1960年代初頭までまともな名称が与えられておらず、「15世紀後半の関東の内乱」などと呼ばれていた。

(中略)

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2018.8.4 発売
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CDアルバムのご注文、歴史系アーティストさくらゆきさん、歴史タレント小栗さくらさんへのお問合せは、さくらゆきHP(http://sy-sakura.com/)までお願いします。

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信長の野望 201X歴史シミュレーション「信長の野望」シリーズが現代を舞台に、今度はRPGとなって201X年の日本に甦ります。
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■和心 いちえ
住所:茨城県古河市東1-3-10
電話:0280-33-1173
営業時間:9:00~19:30
定休日:水曜日


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